江戸の名残を歩く

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第18回
深川を歩く・その1

深川神明宮

今回からは、江東区でも江戸情緒が色濃く残る深川を訪ねます。最初は、隅田川に架かる新大橋に向かって歩きましょう。
都営地下鉄森下駅から地上に出ると、新大橋通りと清澄通りが交差しています。清澄通りを南に5分ほど歩き、右折して少し西に進むと神社が見えてきます。深川神明宮です。

深川神明宮社殿

まず、深川という地名の由来についてお話しましょう。徳川家康が江戸城に入ったころ、深川は葦の生い茂る三角州で、住む人などいませんでした。そんな地に、大阪から深川八郎右衛門という人物が一族を連れて移り住み、深川の開拓に取り掛かりました。江戸城にいた家康が深川を視察に訪れた時、八郎右衛門が召し出され、この地域の地名を問われました。住人も少なく地名もまだありません、と八郎右衛門と答えたところ、家康からその姓を地名にするよう命じられたといいます。そこで、深川という地名が生まれたのです。
八郎右衛門は開拓の功績をもって深川村の名主に任命されましたが、自分の屋敷内に小さな祠を建立し、深川の発展を祈りました。この祠が現在の深川神明宮です。深川では最古の社でもあります。
深川神明宮を出て、再び清澄通りに戻り北に進みます。新大橋通りに突き当たったところで、道を西に取り隅田川に向って歩きます。

御舟蔵跡の碑

10分近く歩くと新大橋が見えてきます。その手前の広場には、御船蔵跡の石碑が建っています。新大橋のたもとは、幕府の御用船が繋留される「御船蔵」と呼ばれた場所だったのです。
3代将軍徳川家光の時代にあたる寛永12年(1635年)に、幕府は「安宅丸」と呼ばれた軍船を建造します。外側が銅板で覆われ、櫓が100挺、200人の水夫が配置されるという大型の船でした。米を1万俵も積めたそうです。この安宅丸が繋留されていたのが、深川の御船蔵でした。他の御用船も繋留されていましたが、安宅船はひと際目立っていたため、この界隈はいつしか御船蔵安宅町と呼ばれるようになったのです。

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