江戸の名残を歩く

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第21回
三菱創業者・岩崎弥太郎ゆかりの庭園を歩く

今回も清澄白河駅からスタートです。「清澄」も「白河」も、江東区内の町名です。
「清澄」は、この一帯を開拓した人物が清澄弥兵衛という名前であったことによります。「白河」という町名は、今回お参りする霊岸寺に眠るある人物に由来します。

清澄庭園入口

駅前を走る清澄通り沿いに広がる清澄庭園から訪ねましょう。
この庭園は、近くに墓所がある江戸の豪商紀伊国屋文左衛門の屋敷でしたが、後に下総国関宿藩主久世家の屋敷となります。大名屋敷内に造られた庭園という点では、小石川後楽園や六義園などと同じです。
明治に入ると荒廃してしまいますが、明治11年(1878年)に三菱の創立者である岩崎弥太郎が買い取ります。岩崎は庭園を整備し、三菱社員の慰安そして貴賓を招待する施設「深川親睦園」とします。

清澄公園

ところが、関東大震災後に防災地としての公園の必要性が高まったことを受けて、岩崎家は破損の少なかった庭園の東半分を東京市に寄付します。そして、昭和7年(1932年)に開園となったのがこの清澄庭園でした。やがて庭園の西半分も東京市の所有となり、昭和52年(1977年)に清澄公園として開園します。

再び清澄通りに戻ります。江戸情緒漂う資料館通りと呼ばれる通りを進んでいきましょう。

霊巌寺参道
霊巌寺本堂

左手に参道が見えてきます。霊巌寺の参道です。かつて、隅田川の河口に霊巌島と呼ばれた島があり、霊巌寺が建立されましたが、明暦の大火後に実施された都市計画で現在地に移転します。では、境内に入っていきましょう。

霊巌寺境内にある江戸六地蔵の一つ

大きな地蔵が立っていますが、これは江戸六地蔵の一つです。品川や新宿など江戸への街道の出入り口に、旅人が安全を祈願した地蔵が六体建立されたうちの一つです。享保2年(1717年)の建立です。

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