江戸の名残を歩く

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第7回
水戸徳川家ゆかりの小石川界隈を訪ねる・その1


後楽園の掲示板にある徳川光圀などの画像

徳川御三家シリーズの締めくくりは、水戸藩です。水戸黄門こと徳川光圀は、二代目の水戸藩主でした。

水戸藩の石高は尾張・紀州藩の半分ぐらいの35万石です。尾張藩が尾張国をまるまる、紀州藩が紀伊国をまるまる領地としていたことに比較すると、水戸藩は常陸国の半分も領地にしていません。また、尾張・紀州藩主が大納言に任命されたのに対し、水戸藩主は中納言どまり。家格も、尾張・紀州藩よりも下に位置付けられていました。

ですが、江戸とのつながりは尾張・紀州藩以上でした。水戸藩は江戸常府といって、藩主は江戸にいることを義務付けられていたからです。

むしろ、居城の水戸城に戻ることが珍しいぐらいでした。ですから、歴代水戸藩主の大半が水戸ではなく江戸で生涯を終えています。水戸藩士の多くが、殿様と一緒に江戸で生活していたのです。

水戸藩の上屋敷は小石川にありました。まずは、小石川の上屋敷跡から訪ねていくことにしましょう。

後楽園の掲示板にある小石川上屋敷の図

総武線水道橋駅を降りて北に向かいます。神田川に架かっている水道橋を渡り、白山通りを進んでいくと、左手に東京ドームの巨大な建物が見えてきます。その場所に小石川の上屋敷がありました。


東京ドーム

これから向かう後楽園は、現在都立庭園の一つになっていますが、元々は小石川上屋敷内に造られた庭園でした。つまり、東京ドームと後楽園を合わせた区画が、幕府から水戸藩が拝領した上屋敷だったわけです。

残念ながら、藩主が住んでいた御殿などの建物は何も残っていません。明治に入ると、砲兵工廠が置かれて軍事施設となったことで、幻と消えてしまったのです。

神田川を挟むようにして、水戸藩から分家した大名の屋敷がありました。それは、高松藩12万石の松平讃岐守の屋敷です。現在の千代田区三崎町三丁目や飯田橋三丁目辺りです。外堀の役割を果していた神田川に沿って、幕府は城門を設置し、現在小石川橋が架かっている辺りに小石川御門を造りました。小石川御門を挟むようにして、北に水戸藩の上屋敷、南に高松藩の上屋敷があった格好です。

水戸光圀の兄松平頼重が高松藩の初代藩主で、その2代目藩主は光圀の実子である頼常でした。

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