江戸の名残を歩く

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第25回
谷中に徳川慶喜の面影を訪ねる

田安徳川家墓所

慶喜の墓所の近くには、一橋徳川家とともに徳川御三卿(ごさんきょう)の一つ、田安徳川家の墓所などもありますが、徳川家ゆかりの著名人のお墓も数多くあります。意外なところでは、明治の実業家のシンボルである渋沢栄一もその一人です。

渋沢家墓所入口

慶喜に遅れること約2年半後の天保11年(1840)2月13日、渋沢栄一は現在の埼玉県深谷市に生まれました。生家は藍(あい)の商売にも携わった豪農です。青年期は攘夷(じょうい)運動に走りましたが、やがて慶喜の家臣となります。
幕府が倒れた後は、慶喜が謹慎していた静岡に移り住みますが、明治2年(1869)に明治政府からの命令を受けて東京に出ます。大蔵省に入り、官吏の立場から日本の近代化のため殖産興業に力を尽しました。大蔵省を辞めた後は実業家として活躍し、銀行や会社などを数多く創立し、日本資本主義の父と呼ばれるようになりますが、終生慶喜に忠節を尽くした顔はほとんど知られていないでしょう。慶喜の家計も支えていました。

右が渋沢栄一のお墓

昭和6年(1910)11月11日に、渋沢は92才で死去します。主君と仰ぎ続けた慶喜の近くに葬られます。谷中霊園内に墓所が造られました。慶喜の場合と同様に、現在渋沢家墓所内には入ることができませんが、奥のほうに「青淵渋沢栄一墓」と銘が入った渋沢のお墓があります。
谷中霊園内を歩いてみると、徳川慶喜とその家臣渋沢栄一という意外な人間関係にも出会えるのです。

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