江戸の名残を歩く

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第26回
谷中の夕焼けだんだんを歩く

2回にわたって、谷中霊園に江戸の名残を訪ねましたが、今回からは谷中の街に入っていきましょう。再び、日暮里駅からスタートです。

日暮里駅北口を出ると、その前には御殿坂が走っています。この坂をのぼっていくと谷中の街に入りますが、その両側には昭和を感じさせる店が数多く並んでいます。その通り沿いにも、お寺があります。本行寺からお参りしましょう。

本行寺正面

本行寺は、江戸城を築城した武将・太田道灌(おおたどうかん)の孫が大永6年(1526年)に建立した寺院です。創建時は江戸城近くにありましたが、移転を繰り返し、宝永6年(1709年)にこの地に移ります。境内からの眺めが良かったため、月見寺とも呼ばれました。

本堂と小林一茶の句碑
句碑

境内に入ると、小林一茶の句碑があります。
「陽炎や道灌殿の物見塚」
物見塚とは、遠方を見るための物見台のことです。現在では周囲に高層の建物が林立していますが、江戸のころは、この道灌ゆかりの寺からの眺めが良かった様子がしのばれる一句です。

経王寺門前

本行寺の隣には、経王寺が立っています。経王寺は、江戸時代に入ってから創建された寺院です。明暦の大火直前の明暦元年(1655年)に創建されました。
この寺は、谷中霊園に葬られている徳川慶喜とゆかりがあります。慶応4年(1868年)正月の鳥羽・伏見の戦いで敗れた慶喜は、官軍に対して恭順の意志を示すため、上野の寛永寺で謹慎生活を送ります。その折、家臣の一部は慶喜を守ると称して寛永寺にこもります。彼らは彰義隊と呼ばれましたが、江戸城が官軍に明け渡された後も、官軍への敵対姿勢を崩しませんでした。

銃弾跡

同年5月15日、官軍は彰義隊を攻撃して壊滅させます。敗れた彰義隊は谷中方面に逃走し、その一部は経王寺に逃げ込みました。そのため、追撃した官軍が寺に向かって銃弾を撃ち込みますが、その銃弾の跡が今も山門に残っています。

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