大河ドラマ「八重の桜」の世界をめぐる

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第6回
弟と父の死、そして夫との別れ

慶応四年に入って間もなく、鳥羽・伏見の敗戦の知らせが会津にも届きます。
山本家には八重の弟・三郎の遺品が届けられました。そして八重の兄・覚馬は、官軍によって処刑されたという情報がもたらされます。
弟には先立たれ、兄は生死不明。もうこの世で会うことはないのかもしれない…。

しかし、八重は悲しみに沈んでいられませんでした。会津藩を取り巻く状況は悪化の一途をたどり、官軍と称する政府軍が会津に刻々と迫りつつあったからです。
江戸に逃げ戻ってきた慶喜は、新政府に対して、ひたすら謝罪の意思を示します。勝海舟に全権を委ね、政府軍を指揮する西郷との交渉に当たらせます。
政府軍の進軍スピードは早く、三月十五日には江戸城総攻撃が予定されていました。

しかし、西郷と海舟の交渉により江戸城総攻撃は中止となり、江戸城は無血開城となります。江戸を占領した政府軍は、続けて東北に向います。会津藩を中心に東北の諸藩が連合して、政府軍に抗戦する構えを見せていたからです。
会津藩では政府軍の来襲に備え、軍制の洋式化を断行して軍備の増強につとめます。
しかし、覚馬がその場にいなかったことで、充分な成果は得られませんでした。そうこうするうちに、政府軍との戦いがはじまってしまうのです。

各地で会津藩を破った政府軍は破竹の勢いで、会津若松城下に乱入します。八月二十三日のことです。その早朝、突然半鐘が鳴らされます。政府軍が城下に迫って来たという知らせでした。
城下米代四ノ丁に屋敷があった山本家では、母・佐久と覚馬の妻・うらが、城内には入らずほかの場所に避難しようと八重に話していました。女性は籠城戦(ろうじょうせん)の役に立たない上、城内に入れば備蓄されている食糧を減らしてしまい、殿様に対して不忠となってしまうと考えたからです。
しかし、八重は決死の覚悟で自分は入城すると母や兄嫁に向かって息巻きます。
さて、八重はどういう行動を取ったのでしょうか。

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