お取り寄せからみたニッポン

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第3回
岩手県・デザインと効能で見直される南部鉄器

二つのルーツと二つの製法を持つ鉄器


岩手県の遠野へ行ったおり、昔語りを聞いた南部曲り家の囲炉裏にかけられていた鉄瓶が、丸くてドッシリした南部鉄器だということは知っていた。だがその鉄器に、盛岡と水沢の二つのルーツがあることは知らなかった。岩手県の南部鉄器は、この二つの産地の系統から進化したものなのだそうだ。

盛岡の鉄器は、慶長年間に盛岡藩主の南部氏が、京都や甲州などから鋳物師や釜師を招き、茶の湯釜を作らせたのがはじまりだという。南部鉄瓶の創始者といわれる三代仁左衛門の小泉家や、梵鐘などを作った鈴木家などが盛岡南部鉄器を盛り立て、18世紀になって茶釜を小さく改良したことで、広く一般にも普及するようになった。

一方、奥州・水沢の南部鉄器は、平安後期に藤原清衡が近江国から鋳物師を招いて、鋳物作りがはじまったのがルーツ。清衡が平泉に移ると鋳物師も移動し、奥州藤原氏の滅亡後は日用品などを鋳造していたという。江戸時代には、地域の産業として仙台藩の庇護を受け、鉄鍋や鉄釜などを鋳造。現在では、産業機械鋳物も得意とする産地になっている。

おもしろいのは、鉄器の製法も二種類あること。伝統的な「焼型法」は、鋳型を焼き固めて作る手間のかかる方法で、国から伝統技術の保存指定を受けている。どちらかというとデザインや文様が重視される、鉄瓶、茶の湯釜、花瓶などが作られている。もうひとつは鍋や風鈴など大量生産に適した「生型法」。金型に鉄を流し込むため、寸法精度が高いのが特徴だ。

鉄器が盛んに作られた背景には、岩手県に、鉄器の製造に必要な砂鉄や岩鉄などの良質な鉄資源、それから鋳物加工のための川砂、粘土、漆、木炭といった原料が地元で調達できるといった、鉄器の製造に適した条件が揃っていたことがある。明治以降は、全国的に流通するようになったが、 第二次大戦によって、鉄器は軍需関連品以外の製造が禁止されて職人が激減し、終戦後はアルミニウム製品に取って代わられ需要が減ってしまった。

二つの産地には、それぞれ、南部鉄器協同組合(昭和24年設立)と水沢鋳物工業協同組合(昭和29年設立)があり、昭和34年に連合会が設立され、南部鉄器の振興に努力しており、この南部鉄器が、再びじわじわと人気を高めているのである。

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