江戸の名残を歩く

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第22回
紀伊国屋文左衛門の最後を追う

紀伊国屋文左衛門の墓

深川江戸資料館を出て、資料館通りを戻ります。江戸六地蔵が境内に立つ霊巌寺と向かい合う形で成等院という寺院が建っていますが、その境内に紀伊国屋文左衛門の墓所があります。
今回は紀伊国屋文左衛門のお墓からお参りしていきましょう。

左の小さい墓が文左衛門の墓

文左衛門というと、出身地の和歌山産のミカンを江戸で売って巨利を上げた商人として知られていますが、元々は材木商人でした。5代将軍徳川綱吉の信頼を一身に集めていた柳沢吉保に取り入り、将軍の菩提寺・寛永寺の根本中堂普請の用材納入を請け負うことに成功します。そして、莫大な利益を手中に収めました。
吉原での豪遊ぶりが広く言いはやされるなど、華やかな元禄時代を象徴する人物の一人でした。近くの清澄庭園も、元々は文左衛門の屋敷だったと伝えられています。
しかし、綱吉の時代が終わると、家運が衰え、晩年は零落してしまいます。享保19年(1634年)に66歳で死去し、清澄庭園近くの成等院に葬られました。大きな碑の横にあるのが、文左衛門のお墓です。碑は、昭和38年(1963年)に建立されたものです。

仙台堀川

清澄通りに戻り、南に歩いていきましょう。10分ほど歩くと、仙台堀川が見えてきます。この堀は、深川の開拓の過程で開削された水路です。仙台堀の北側に、仙台藩伊達家の蔵屋敷が置かれていたことで、仙台堀と名付けられました。

馬琴誕生の碑

仙台堀川に架かる海辺橋の手前に説明板が建っています。滝沢(曲亭)馬琴の生誕地の碑です。
この辺りには、旗本松平鍋五郎の屋敷がありました。馬琴の父は松平家の家政を預かる用人でしたが、屋敷内に住居を与えられていたため、馬琴は主人にあたる松平家の屋敷で生まれたのです。明和4年(1767年)のことでした。
武士の家に生まれた馬琴でしたが、後に作家に転向します。そして、「南総里見八犬伝」などのヒット作を生み出したことはよく知られているでしょう。

説明板下の碑

生誕地の説明板の下に、版本を積み重ねたような碑があります。一番上には、「南総里見八犬伝」の表紙が付けられた版本が置かれています。馬琴の作家としての偉業が、こうした形で伝えられているのです。

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