江戸の名残を歩く

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第25回
谷中に徳川慶喜の面影を訪ねる

今回は、江戸の名残の象徴ともいえるべき人物を訪ねます。谷中霊園内に葬られている徳川慶喜の墓所をお参りしましょう。言うまでもなく、慶喜は最後の将軍として江戸時代の終焉(しゅうえん)を象徴する人物です。

慶喜墓所への案内板

前回は天王寺から五重塔跡を訪ねましたが、そのまま道を東に取ると、「徳川慶喜墓」という標識が現れます。それに従って、慶喜のお墓に向かいます。

慶喜墓所へ
慶喜墓所正面

天保8年(1837)9月29日、慶喜は水戸藩の小石川屋敷で生まれました。小石川屋敷は現在の東京ドームが立っている辺りにありました。父は9代目水戸藩主の徳川斉昭です。斉昭は子沢山で知られましたが、その七男にあたります。ですから、慶喜の幼名は七郎麿といいます。
弘化4年(1847)に一橋徳川家へ養子に入り、一橋慶喜と名乗ります。慶応2年(1866)12月に将軍の座に就きますが、翌3年(1867)10月に大政を朝廷に奉還して幕府を消滅させます。しかし、4年(1868)に起きた鳥羽・伏見の戦いで薩摩・長州藩に敗れ、天皇に弓を引いた朝敵とされます。そのため、慶喜は反省の意を示す形で、以後30年間、水戸そして静岡で身を慎みます
明治30年(1897)に慶喜は東京に転居しますが、35年(1902)には華族のトップである公爵に叙爵され、その名誉が名実ともに回復されます。大正2年(1913)11月22日に77才で死去し、谷中に葬られました。葬儀は仏式ではなく、神式で執り行われました。

慶喜と美賀子のお墓
慶喜の息子勝精のお墓

現在慶喜の墓所内には入れませんが、柵越しにお参りできます。慶喜の希望で、奈良などに点在する天皇陵のような形の墓石になっています。妻の一条美賀子のお墓も横にあります。息子の精は勝海舟の養子となりますが、そのお墓も墓所内にあります。

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