江戸の名残を歩く

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第5回
紀州徳川家ゆかりの赤坂界隈を訪ねる・その1


清水谷公園内の大久保哀悼の碑

紀尾井坂から紀州藩の麹町上屋敷に向かう途中、左手に公園が広がっています。清水谷公園です。

園内には、明治の元勲の一人・大久保利通の碑があります。明治11年(1878年)5月14日、霞ヶ関の自邸を出た大久保利通は紀尾井坂を経由して赤坂御所に向かう途中、刺客に襲われ、49年の波乱の生涯を終えました。その遺徳を偲ぶため、後に園内に哀悼の碑が建立されたのです。

紀伊徳川家屋敷跡の碑

さらに南に進むと、左手に赤坂プリンスホテルの建物が聳え立っています。ホテルの入り口辺りに、「紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡」という石碑が建っています。かつての様子を伝えるものは何も残されていないため、この石碑だけが紀州藩屋敷の名残を伝えています。

その前方には弁慶濠が広がっています。堀に架かっている弁慶橋を渡ると、赤坂の街に入りますが、江戸のころは架けられていませんでした。架橋されたのは明治に入ってからです。

弁慶堀、前方にある石垣が赤坂見附の名残
弁慶橋

弁慶橋を渡って、道を左に行きます。やがて石垣が見えてきます。江戸城の城門の一つ赤坂見附の名残です。

見附とは枡形の城門のことで、警備の武士が詰める番所としての機能を持っていました。江戸城の施設として外堀と内堀沿いに36カ所もあり、その一つが赤坂見附なのです。

赤坂見附は、寛永13年(1636年)に福岡藩主黒田忠之によって造られました。その跡が残されているのですが、見附とセットで造られた赤坂御門が完成したのはそれから3年後のことでした。

江戸城の城門は明治に入ると、次々と撤去されていきます。枡形になっているため、防御には適していましたが、通行には支障をきたしていました。そのため、撤去されたといわれていますが、江戸を彷彿とさせるような江戸城の建物をなくしてしまおうという明治政府の意図もあったかもしれません。

しかし、赤坂見附の石垣は幸運にも残されました。そして地下鉄の駅名としても、江戸を今に伝えているのです。

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