江戸の名残を歩く

バックナンバー

第29回
上野で葵の紋所に出会う

本堂

綱吉の霊廟の隣にあるのが、寛永寺です。明治に入って、現在の上野公園から移転してきた格好です。慶応4年(1868)5月15日、寛永寺は彰義隊の戦いに巻き込まれ、根本中堂など堂社の大半が焼け落ちます。
戦後、明治政府によって境内の大半が取り上げられた結果、寛永寺境内は上野公園に変貌します。寛永寺には、その裏手に改めて土地が与えられますが、本堂が焼失していたため、川越の喜多院の本地堂を移築し、根本中堂つまり本堂としました。

喜多院と寛永寺の関係ですが、同じ天台宗ということもありますが、寛永寺の開山である天海僧正が喜多院の住職だったというつながりがあります。喜多院と徳川家のつながりは非常に強く、江戸城の建物の一部が喜多院に移築されたほどです。そのようなわけで、家綱・綱吉兄弟の父にあたる3代将軍誕生の間を、現在喜多院で見ることができるというわけなのです。

移設された手水鉢

元々寛永寺にあったものも、本堂の前に移築されています。大きな手水鉢は、その一つです。

寛永寺境内の紹介展示

本堂の近くには寛永寺の歴史を教えてくれる展示コーナーが設けられています。鮮やかな錦絵も展示されていますので、江戸の世界に浸ることができるのではないでしょうか。

コメント