江戸の名残を歩く

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第33回
隅田川で江戸一の料亭街に出会う

両国橋

柳橋を渡って、隅田川に向かいましょう。両国橋が現れますが、その橋のたもとは両国広小路と呼ばれていました。広小路とは橋のたもとに設けられた火除地のことです。橋の両側にありますが、中央区側にあるのは両国西広小路で、両国橋を渡って墨田区側に設けられたのが両国東広小路でした。どちらの広小路も江戸の繁華街として賑わいましたが、どちらかと言えば両国西広小路の方が勝っていました。柳橋に隣接していたことが大きかったようです。
両国広小路には、飲食店をはじめとする店が多数立ち並んでいました。意外にも、橋のたもとが江戸の盛り場として賑わっていたのです。それだけ、両国橋を通行する人の数が多かったわけです。

両国西広小路跡
広小路の説明版

現在では、その賑わいを思い起こさせてくれるものは何も残っていません。両国西広小路記念碑がその歴史を伝えるのみです。

それでは、最後に両国橋を渡りましょう。
江戸の頃、隅田川に架かっている橋は5つしかありませんでした。千住大橋が一番古いのですが、江戸時代に入る前に架けられた橋です。江戸時代に入って最初に架けられたのが、この両国橋でした。
両国橋が架橋されたのは、万治2年(1659)あるいは、万治4年(1661)という説もありますが、架橋の大きな動機となったのは明暦3年(1657)正月に起きた明暦の大火です。この大火の焼死者だけで10万人に及んだと言われます。隅田川に橋が架けられていなかったため、隅田川河畔で逃げ場を失い、溺死した者も数知れずいました。
この大惨事を教訓として、幕府は両国橋を架けました。その後、両国広小路が柳橋とともに江戸の繁華街となり、華やかな江戸文化がこの地で花開いたのです。

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