お取り寄せからみたニッポン

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第6回
新潟県・燕三条生まれの美しい金属製品

時代にあわせて進化する金属加工技術

燕鎚起銅器の玉川堂

近所の商店街では、定期的に、カトラリーやキッチングッズの販売が行われている。閉店した店舗が場所を貸し、週替わりでさまざまな商品の販売が行われているのだが、このカトラリーやキッチングッズ販売は、「次回はいつくるの?」と、リピーターがつくほどの人気。日用品だが、便利なアイデア商品から銘のある包丁など、本格的な匠製品も並び、価格も種類もバラエティーに富んでいる。販売店舗の外に立てられた“のぼり”をみると納得だ。新潟県燕三条の金属加工業者、つまり、日本でも有数の洋食器加工のメッカからの出張販売なのである。

新潟県三条市と燕市は古くから、金属加工が盛んな地域。江戸時代の寛永年間(1624年~1643年)、川の氾濫で困窮する農民のために、代官所が江戸から釘鍛冶職人を招いて、農家の副業として和釘の製造法を指導・奨励したのが始まりだという。三条地方では三条鍛冶の包丁や利器工匠具が、燕地方では江戸時代中期に仙台の渡り職人が銅器の技術を伝え、弥彦山で採れた銅を使ってやかん類が生産されるようになった。これは「燕鎚起銅器」として、一枚の銅板を焼鈍を繰り返しながら、打ち延ばしや打ち縮めといった鍛金技術を駆使して仕上げるもので、美術工芸品としても高く評価されるものに進化していった。また、元禄年間(1690年代)には、ヤスリやキセルなどの製法も伝わり、寛政年間(1790年代)には矢立が作られるようになるなど、さまざまな金属加工を手がける地域となっていった。

しかし明治時代になると洋釘の輸入が盛んになり、和釘は衰退。明治末期には、ヤスリやキセルが巻煙草に、銅器はアルミの台所用品にとって変わられ、矢立も万年筆の流行で生産が減ってしまった。その一方、文明開化で洋食が広まり、金属洋食器製作の注文が入るようになり、大正時代には加工機械を導入。量産体制を整え、戦後は駐留米軍からの注文も入るなど、台所用ハウスウェアの生産が盛んになっていったという。

こうした製品の普及やニーズにあわせ、プレス加工、機械加工、精密板金、溶接、表面処理といった技術も進化。製造される製品にあわせて、金属加工だけでなく、木工や樹脂、セラミックといった素材を扱う加工メーカーも集まるように。伝統的な加工技術を時代に応じて進化させながら、互いに連携し合って、ハンドツールからカトラリーウェア、アウトドアグッズ、測定器具など、多岐に渡る製品を製造する、一大金属産業地域として成長してきたのである。

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