お取り寄せからみたニッポン

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第18回
富山県・仏像からフィギュアまで作る高岡銅器

高岡大仏は地元の職人たちの技術の結晶

最近、ちょっとおもしろいなと思ったのが、女性のイケメン好きという話題から、阿修羅などの仏像を愛好する若い女性たちがいると聞いたこと。そういえば、歌人の与謝野晶子も、富山県の高岡を訪れた際、高岡大仏を見て「鎌倉大仏より一段と美男」と評したという話を思い出した。仏像のお顔だちを愛でる女性は昔からいたのかもしれない。

この高岡大仏、たしかに写真をみると四角い印象の奈良の大仏、丸顔の鎌倉の大仏と比べて、スッとしたお顔だち。日本三大仏といえば、この奈良の大仏と鎌倉の大仏に、あともう一仏、どこの大仏を入れるか諸説分かれているようだが、3尊目として、この富山県高岡市大佛寺の高岡大仏と岐阜県岐阜市正法寺の岐阜大仏が日本三大大仏を称しているそうだ。
岐阜の大仏は日本最大の乾漆仏だが、奈良の大仏や鎌倉の大仏と同じ銅造なのが高岡大仏。大きな銅製の仏像を作るのは、資金だけでなく原料の調達や鋳造技術といったさまざまな課題が伴う大事業。仏教伝来の奈良、武家文化の鎌倉なら、そうした事業をなし遂げられた理由もわかるが、富山県の高岡で、なぜ銅造の大仏が作られたのだろうか。

この理由は、高岡が日本の銅器の生産の9割を手がける産地だからだ。
高岡銅器の起源は、加賀藩主・前田利長が高岡城に入城し、1611年に城下の経済的発展を目的として、7人の鋳造師(いもじ) を今の高岡市金屋町に呼び寄せたことに始まる。金屋町には鋳物工場が作られ、日用品の鍋や釜などの鉄鋳物の生産が開始されたという。江戸時代中頃から銅鋳物も盛んになり、明治時代には廃刀令で職を失った刀職人が銅器産業に参入。細かい細工や装飾技術に長けていたことから、日用品だけでなく美術工芸品も作られるようになった。1873年、ウィーンの万国博覧会で銅器専門店「金宗」を営む金森宗七の出品作が受賞するなど、世界的にも高く評価され、多彩な輸出品が作られた。また国内でも銅器のナンバーワン産地として、高岡は長く繁栄を続けてきた。
その高岡で、元は木造だった地元の大仏が火事で焼失したため、火に強い仏像の再建を望んで、1907年から高岡銅器の職人たちの協力を得て再建がはじまり、1933年に完成。いわば地元の職人たちの技術力の結晶、地域産業の象徴が高岡大仏なのである。

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