大河ドラマ「八重の桜」の世界をめぐる

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第3回
八重や覚馬の運命の分かれ道

八重の兄・覚馬を演じる西島秀俊さんは、松平容保を演じる綾野剛さんの御供で京都に向かいました。文久二年(一八六二)のことでした。
八重は十八才。覚馬は三十五才。尚之助が二十七才の時でした。
京都に向かったのは、覚馬だけではありません。
千人もの藩士が容保を守って京都に向かいました。
では、覚馬たち会津藩士は何のために京都に行ったのでしょうか。
容保が幕府から京都守護職という役職に任命されたからです。

当時、京都は幕府の政治を批判する武士たちであふれていました。
アメリカ、イギリス、フランスなど欧米諸国に対する外交政策が弱腰であるとして、幕府を激しく攻め立てていたのです。
幕府の外交政策を批判する武士たちは、尊王攘夷(そんのうじょうい)の志士と呼ばれました。
全国から京都に集まってきましたが、その中心は高杉晋作が所属する長州藩の武士たちでした。

京都には天皇がいました。時の天皇は孝明天皇です。
ドラマでは、歌舞伎役者の市川染五郎さんが演じます。
徳川家は、天皇から将軍に任命されて幕府の設置を許されました。
今でいうと、天皇から総理大臣に任命されたようなものです。

ところが、尊王攘夷の志士は天皇の周りにいるお公家さんたちを味方に付けることで、天皇の意思は強硬な外交政策を取ることにあると主張し、首相である将軍を激しく批判したのです。
将軍、つまり幕府を擁護する者もいました。
しかし、尊王攘夷の志士たちはテロ行為に及ぶことで、その意見を押さえつけます。京都では、テロの嵐が吹き荒れていたのです。

そうした動きに危機感を強めた幕府は、徳川家の親類筋に当たる会津藩松平家をして京都の治安維持に当たらせようと考えます。
自分の代わりに、京都で尊王攘夷の志士たちを取り締まらせようと考えたのです。
しかし、それは会津藩の悲劇のはじまりでした。
八重や覚馬ら会津藩士たちの運命の分かれ道だったのです。

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